Merry Christmas for you 2004

 

 控えめにノックの音が聞こえて、晃は扉を開いた。

「―――よお」

どこか気遣うような声。

目の前に現れた、甲太郎の困惑気味な顔を見て、ニッコリと微笑み返す。

「ちゃんと来たな?まあ、入れよ」

脇によけて招きいれて、扉はゆっくり閉じられた。

 

―――今日はキリストの降誕日。

 

用意された小さなテーブルの上に、即席で焼いたブラウニーとハムのようなつまみが置いてある。

鼻腔をくすぐる慣れ親しんだ香りに、備え付けの調理台を見るとコンロに鍋がかけられていた。

「お、素早いな」

晃の声で振り返る。

「カレー、か?」

「そ、俺が作ったの、これでも結構気を使ったんだぜ」

なんたってカレーマニアに食わせる一品だからな。

甲太郎は苦笑した。

「マニアじゃなくて、通って言えよ」

「同じだろ?」

「まあ、そうだが」

さっさと向こう側に腰を下ろして、コイコイと手招いている。

甲太郎は卓の前で立ち尽くしていた。

口元で、アロマの煙が揺れている。

「ほら、何ぼっと突っ立ってんだ、日本式のパーティーやるぞ」

「日本式?」

「クリスマスの祝い方は各国様々、地域によっても違いがある、でもここは日本だから、日本式に祝うんだよ」

ケーキにご馳走、シャンパン。

言いながら晃が瓶をテーブルの上に置く。

「まだ学生だからな、これは、シャンメリーだけど」

お酒は二十歳になってから。

「お前がそれを言うのかよ、晃」

呆れながら甲太郎はそれでもまだ立ったままだった。

「ほら、座れよ」

再び手招かれて、パイプを唇から離した。

「―――晃」

「ん?」

「お前、さ」

暖かな部屋に、旨そうな匂いが漂っている。

やはり即席で作成したらしい卓上のキャンドルスタンドでは蝋燭の火が揺れていた。

目の前の晃を見詰めて、瞳の奥が輝きを映しながら同じようにゆらゆら揺れる。

「―――何、考えてんだよ」

視線がわずかに俯いた。

「俺なんかをこんなところに呼び出して」

慣れ親しんだ空間のはずなのに、今日はやけに居心地が悪い。

それは俺のせいだ。

「俺は」

ラベンダーが鼻先をかすめた。

これは、贖罪の香り。

そして罪の烙印。

愚かだった自分への、戒めの檻。

解けない魔法。

雁字搦めに捕らえられて、このままゆっくりと朽ちていくはずだった俺の、無くした魂の匂い。

「お前を」

―――裏切った。

「あの時、殺そうとしたんだぞ」

イエスの降誕祭に、ユダを呼んで祝うバカがどこの世界にいる?

あの男がわずかな金銭と引き換えに裏切りを働いた物語は、誰だって知っている。

そして、皆は口をそろえて罵るのだ。

裏切り者のユダ。

愚か者のユダ。

彼のせいで、尊き人は死んだ。

俺はユダだ。

お前の傍で、友達面をして、ウソをばら撒いていた最低の人間だ。

なのに、どうしてこんな日に俺を呼ぶ。

―――お前は俺に何を望んでいるんだ。

蛍光灯に照らされて、晃は無言で甲太郎を見詰めている。

ゆらゆら揺れる紫煙の向こう、不意に立ち上がり、歩いてくる。

わずかに身構えた甲太郎の脇をすり抜けて、壁際のスイッチを押した。

室内の電灯が消えた。

キャンドルの炎だけ、二人の姿を照らし出している。

「俺は、さ」

そのまま晃は口を開く。

「そんなこと、気にしてないんだ」

「晃」

「確かに、ちょっとは怒ってるけど、それはお前が思っているようなことじゃないよ」

「何、を」

「俺は」

瞳が振り返る。

漆黒の底で、炎が踊る。

「裏切られたとは、思っていない」

甲太郎は顔を背けていた。

パイプに唇をつけて、胸の奥深く香りを吸い込む。

「お前の考えはお前だけのもので、俺の考えは俺だけのものだから、俺はそれをお前に強要したりはしない」

深々と吐息を洩らす。

辺りにラベンダーが広がっていく。

「誰にも、誰かの傷や、過去を、完全に理解することなんてできないさ」

けれど。

「それでも、信じることならできる」

胸の奥を貫く声。

導かれるように、視線をわずかに戻す。

「俺はお前を信じてる」

「―――そんなこと、簡単に言うもんじゃない」

「簡単なんかじゃない、信じてるんだ」

好きだから。

甲太郎は晃を見た。

オレンジの火に照らされた、彼はとても綺麗な目をしていた。

「愛するって事は、信じることなんだよ、甲太郎」

その瞳がやさしい微笑を浮かべる。

「だからイエスは全てを許して十字架にかけられた、信じたから、人の心を」

それは自分を信じることに等しい行為なのだから。

「俺は自分が好きだ、だから自分を信じてる、だから、お前を好きな自分を信じる」

エゴなんかじゃない、見返りを求めているわけじゃない。

ただ、強く想っているだけ。

信じる事を。

愛する事を。

「俺は、何があってもお前を信じるよ、甲太郎」

―――胸の奥がきしむ。

鎖が、外れていく音がする。

差し込む輝きを遮るものはもう無い。

後はただ―――手を、伸ばせばいい。

「お前は?」

咥えていたパイプを、甲太郎は下ろしていた。

「甲太郎」

名前を呼ぶ声は聖夜にふさわしい賛美歌だ。

闇を照らす炎の向こう、長く伸びた影が翼のように躍る。

 

ここに、すでに檻は無い。

 

「俺を―――信じてくれるか?」

 

甲太郎は思わず苦笑していた。

今更気付くなんて、俺はやっぱりバカだ。

答なんてとっくの昔に出ていた。

イエスはユダすら愛していた。

俺は、それ以上に降り注ぐものを、このお人よしから両手に抱えきれないほど受け取っていたのに。

パイプの火を消すものを探して、見つからなかったから仕方なくオイルライターに擦りつけて消した。

どちらももう必要ないものだ。

両方ポケットにしまって、真っ直ぐにその瞳を見詰め返す。

「―――ああ」

信じるよ、俺も。

自分を信じるように、明日を信じるように、お前を信じる。

銀色に輝く夜明けを信じる。

それは、すでにもたらされていたものだ。

ただずっと気づかないフリをしていただけ。

けれど、それも今日で終わる。

この聖なる夜に終わる。

伸びてきた両腕に抱きしめられて、それがこの上ない喜びである事を伝えるために、甲太郎も晃の背中に腕を回した。

重なり合う鼓動分、満たされていくようだった。

少し離れて、キスをして、もう一度しっかり抱き合って、伝え合う温もりに瞼を閉じて祈りを捧げる。

それは明日に、未来に、そして、お前に。

信じているというだけで、こんなにも世界は輝く。

ようやく本当に向かい合う事ができたような気がした。

道はここから始まるのだと、今はっきりと知った。

 

「甲太郎?」

「―――何だ」

「ありがと、な、逢えてよかった」

「それだけじゃないだろ?」

「ああ」

 

ずっと、その先も。

共に踏み出す一歩が、未来を作り出すのだから。

肩先に額を押し付けていた晃が、顔を上げてフフと笑う。

「俺達ってバカみたいだな、男同士で何やってんだか」

「そんなもん、今更だろうが」

「そうだけど、やっぱりバカだよ、俺も、お前も」

鍋のぐつぐつと煮える音に、二人で振り返ってアッと声を洩らした。

「ヤバイ、焦げたかもしんない」

甲太郎が苦笑する。

「やれやれ、とんだカレーが出来上がりそうだな」

「火、消してこないと」

両腕は離れない。

「甲太郎」

「今だけは、カレーより―――こっちの方が優先だ」

キスを。

「パイプ、くれてやっちまったからな、当面の代用品だ」

「俺の唇が?」

「覚悟しておけよ、晃」

笑い合って、何度もキスを交わす向こうで立ち上る香ばしい煙が、温かな光の色に染まって揺れていた。

輝く星々と月がカーテンの隙間からこっそり覗いている。

 

眠りに埋もれる日々はすでに遠く、ラベンダーの残り香が漂い、聖なる夜に消えていった。

 

(了)